みはしのブログ
2019年05月27日
3代目ブログ
こんにちは、京呉服みはし、店長の平原です。
先日1つ下の弟が帰省し、晩御飯を済ませた後,、久しぶりに二人で飲みました。
小さい頃は、どこに行くにも一緒で、今思えば仲の良い兄弟だったと思いますが、中学校くらいから、ふと、兄弟で仲良くすることに抵抗を感じてしまい、お互いに会話をすることがほとんどないような状態でした。
それから自分が大学に進学し実家を離れた頃からでしょうか、だんだんと普通に会話をしたり、一緒にお酒を飲んだりとするようになりました。
今となっては、血のつながった兄弟、変な気を遣うことなく、本音でしゃべれる存在は良いなと思います。ただ、お互いお酒が好きなのでついつい飲みすぎてしまうので気を付けないといけません(笑)
さて、今回は日本三大紬の一つと呼ばれている「大島紬」を題材とした本の内容を紹介させていただきます。
本のタイトルは「大島紬誕生秘史」、著者は重村斗志乃利、南方新社という出版社です。
大島紬は非常に緻密な絣柄で構成され、その柄をつくる絣糸を通常は手で括るところを、織るという工程で作ります。
絣(かすり):絣は織物の技法の一つで、絣糸(かすりいと)、すなわち前もって染め分けた経糸(たていと)、緯糸(よこいと、ぬきいと)、またはその両方に使用して織りあげ、文様を表すものである。「絣」は日本および琉球の織物を指す用語であるが、これに類した織技は東南アジアをはじめ世界各地にみられ、マレー語で「縛る、括る」を意味する「イカット」(ikat)という語で呼ばれている。(Wikipediaより引用)
この工程で使用する器具を締機(しめばた)と言い、締機の開発により大島紬が大きな飛躍を遂げたのです。「大島紬誕生秘史」は、締機の開発に関する物語を描いたドキュメンタリー小説となります。
↑締機にて絣糸を制作中。図案と照らし合わせながら作業を進めます。
締機は、同じような原理の織貫という名で、久留米にてそれを用いた商品がつくられていましたが、大変複雑な仕掛けであるがゆえに広く普及しておりませんでした。
物語の主人公である昇庸実(のぼり ようざね)とその息子である信久万(しんくま)、甥の治太郎(じたろう)、そして永江伊栄温(ながえ いえおん)が、大島紬のさらなる品質向上の為、織物の産地や織貫の視察を繰り返し、試行錯誤を重ねた末に締機を完成させました。
現代であれば、奄美から飛行機で数時間で色々なところへ、ひとっ飛びできますが、当時、奄美からの移動手段は船。何日もかけて移動しなければなりません。1泊2日の出張とはわけ違います。もはや旅ですね。
↑奄美の美しい海岸は奄美の人々の心とも言えるでしょうか。奄美十景にもなっている土盛海岸です。
苦労の末完成させた締機でどの機屋にも作ることが出来ない緻密な絣柄の大島紬を生産し、これからうなぎのぼり・・・というタイミングで、昇庸実の息子、信久万が死んでしまいます。
悲しみに暮れる庸実ですが、あることを決心。
それは、奄美のために締機を開放し、締機の作り方、使い方等々、大島紬の各機屋にそのノウハウを広めることにしたのです。
お金も時間もかけ、苦労して完成させた締機。当然自分たちだけの技術とすればもはや敵う機屋はおらず、独占状態も可能だったはずです。
それを、奄美全体が潤うように、大島紬自体が大きく発展していくために締機を開放することに決めたのです。
この締機が開発され、全国にその名を轟かせ、昭和47年から49年ごろには年間の生産単数も80万反を誇りました。
しかしながら、現在は1%にも満たない生産となり、いまだ減産の傾向に歯止めがかかりません。
日本人の着物離れによる取り扱いが減ったことも要因の一つでもありますが、実情としては、締機を取り扱える職人が高齢化し、後継者も育たず、需要があったとしてもそれに応える事が出来ないのです。
現在の締機事情としては、腕の良いベテランの職人さんで最も若い方が70歳を超えていらっしゃるという話も聞きます。もっと若い職人さんが締機に取り組んでおり、簡単な柄はこれからも作ることができても、複雑で緻密な柄となると、そこまで習得できるかは非常に厳しいそうです。
ある意味では、締機の開発により栄華を極めた大島紬が、締機の存在により自らの存在が危ぶまれる状況をつくってしまっていると考えることもできるかもしれません。
本当に素晴らしい柄の大島紬は今後見る事が出来なくなる可能性は十分にありますので、もし「欲しい!」と思えるものが目の前にありましたら、思い切って購入されても良いのではないでしょうか。
最後に本のあとがきに記載されている文章を引用します。
大島紬の締機は永江伊栄温により発明されたというのが定説であり、彼のみが脚光を浴びてきました。が、調査を進めるうちに、締機の開発には義弟の昇庸実と甥の昇治太郎の存在があり、二人の協力なしでは締機の開発実用化は成らなかったことが分かってきました。
(中略)
大島紬に携わる一人として、どうしても二人のことを書き残しておきたいとの念に駆られ、二十数年来の疑問を私なりに解明したいとの思いで、この物語を書き進めました。
とあります。この本は、締機がどのような経緯で、どのような想いで開発されたのか。当時の奄美の人々がどのような生活を送っていたのか。そして、今の大島紬は、締機開発に関わる人々の奄美を愛する想いが創り上げたものだという時代背景、非常に感動的なドラマが描かれているのです。
大島紬というジャンルだけでなく、物づくりをされたり興味がある方にも面白い内容です。是非手に取って読んでみてください。
先日1つ下の弟が帰省し、晩御飯を済ませた後,、久しぶりに二人で飲みました。
小さい頃は、どこに行くにも一緒で、今思えば仲の良い兄弟だったと思いますが、中学校くらいから、ふと、兄弟で仲良くすることに抵抗を感じてしまい、お互いに会話をすることがほとんどないような状態でした。
それから自分が大学に進学し実家を離れた頃からでしょうか、だんだんと普通に会話をしたり、一緒にお酒を飲んだりとするようになりました。
今となっては、血のつながった兄弟、変な気を遣うことなく、本音でしゃべれる存在は良いなと思います。ただ、お互いお酒が好きなのでついつい飲みすぎてしまうので気を付けないといけません(笑)
さて、今回は日本三大紬の一つと呼ばれている「大島紬」を題材とした本の内容を紹介させていただきます。
本のタイトルは「大島紬誕生秘史」、著者は重村斗志乃利、南方新社という出版社です。
大島紬は非常に緻密な絣柄で構成され、その柄をつくる絣糸を通常は手で括るところを、織るという工程で作ります。
絣(かすり):絣は織物の技法の一つで、絣糸(かすりいと)、すなわち前もって染め分けた経糸(たていと)、緯糸(よこいと、ぬきいと)、またはその両方に使用して織りあげ、文様を表すものである。「絣」は日本および琉球の織物を指す用語であるが、これに類した織技は東南アジアをはじめ世界各地にみられ、マレー語で「縛る、括る」を意味する「イカット」(ikat)という語で呼ばれている。(Wikipediaより引用)
この工程で使用する器具を締機(しめばた)と言い、締機の開発により大島紬が大きな飛躍を遂げたのです。「大島紬誕生秘史」は、締機の開発に関する物語を描いたドキュメンタリー小説となります。
↑締機にて絣糸を制作中。図案と照らし合わせながら作業を進めます。
締機は、同じような原理の織貫という名で、久留米にてそれを用いた商品がつくられていましたが、大変複雑な仕掛けであるがゆえに広く普及しておりませんでした。
物語の主人公である昇庸実(のぼり ようざね)とその息子である信久万(しんくま)、甥の治太郎(じたろう)、そして永江伊栄温(ながえ いえおん)が、大島紬のさらなる品質向上の為、織物の産地や織貫の視察を繰り返し、試行錯誤を重ねた末に締機を完成させました。
現代であれば、奄美から飛行機で数時間で色々なところへ、ひとっ飛びできますが、当時、奄美からの移動手段は船。何日もかけて移動しなければなりません。1泊2日の出張とはわけ違います。もはや旅ですね。
↑奄美の美しい海岸は奄美の人々の心とも言えるでしょうか。奄美十景にもなっている土盛海岸です。
苦労の末完成させた締機でどの機屋にも作ることが出来ない緻密な絣柄の大島紬を生産し、これからうなぎのぼり・・・というタイミングで、昇庸実の息子、信久万が死んでしまいます。
悲しみに暮れる庸実ですが、あることを決心。
それは、奄美のために締機を開放し、締機の作り方、使い方等々、大島紬の各機屋にそのノウハウを広めることにしたのです。
お金も時間もかけ、苦労して完成させた締機。当然自分たちだけの技術とすればもはや敵う機屋はおらず、独占状態も可能だったはずです。
それを、奄美全体が潤うように、大島紬自体が大きく発展していくために締機を開放することに決めたのです。
この締機が開発され、全国にその名を轟かせ、昭和47年から49年ごろには年間の生産単数も80万反を誇りました。
しかしながら、現在は1%にも満たない生産となり、いまだ減産の傾向に歯止めがかかりません。
日本人の着物離れによる取り扱いが減ったことも要因の一つでもありますが、実情としては、締機を取り扱える職人が高齢化し、後継者も育たず、需要があったとしてもそれに応える事が出来ないのです。
現在の締機事情としては、腕の良いベテランの職人さんで最も若い方が70歳を超えていらっしゃるという話も聞きます。もっと若い職人さんが締機に取り組んでおり、簡単な柄はこれからも作ることができても、複雑で緻密な柄となると、そこまで習得できるかは非常に厳しいそうです。
ある意味では、締機の開発により栄華を極めた大島紬が、締機の存在により自らの存在が危ぶまれる状況をつくってしまっていると考えることもできるかもしれません。
本当に素晴らしい柄の大島紬は今後見る事が出来なくなる可能性は十分にありますので、もし「欲しい!」と思えるものが目の前にありましたら、思い切って購入されても良いのではないでしょうか。
最後に本のあとがきに記載されている文章を引用します。
大島紬の締機は永江伊栄温により発明されたというのが定説であり、彼のみが脚光を浴びてきました。が、調査を進めるうちに、締機の開発には義弟の昇庸実と甥の昇治太郎の存在があり、二人の協力なしでは締機の開発実用化は成らなかったことが分かってきました。
(中略)
大島紬に携わる一人として、どうしても二人のことを書き残しておきたいとの念に駆られ、二十数年来の疑問を私なりに解明したいとの思いで、この物語を書き進めました。
とあります。この本は、締機がどのような経緯で、どのような想いで開発されたのか。当時の奄美の人々がどのような生活を送っていたのか。そして、今の大島紬は、締機開発に関わる人々の奄美を愛する想いが創り上げたものだという時代背景、非常に感動的なドラマが描かれているのです。
大島紬というジャンルだけでなく、物づくりをされたり興味がある方にも面白い内容です。是非手に取って読んでみてください。
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